公益社団法人日本ボート協会

Japan Rowing Association

日本ボート協会JARA

全国のオアズパーソンへの手紙(第53信)

2017年1月6日
日本ボート協会会長
大久保 尚武
会長写真

みなさん、明けましておめでとうございます。

今年の元旦は、東京地方では雲ひとつないすばらしい日本晴れで、富士山も美しく見え、陽にあたると暑く感ずるほどの陽気でした。みなさんの地方ではいかがでしたでしょうか。

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第55回新春初漕ぎ会 (滋賀県大津市瀬田川)

2017年沼津東高校初漕ぎ会 (静岡県沼津市狩野川)

2017年の会長としての年頭挨拶は、近く発行される「Rowing」誌に載せました。重複してもしょうがないので、この手紙では堅苦しい話は抜きにして、わたし自身最近知った「戸田ボートコース誕生」のいきさつを記しておきたいと思います。

『ボート百年』という宮田勝善さん(慶応大学OB、昭和4年卒)の書いた名著から抜粋しながら紹介します。生前の宮田さんにはわたしも1、2度お会いしましたが、ご自身が戸田コース誕生の時の「戸田ボートコース構築委員」も務められたので、実際の経験にもとづく話で、実に面白い。興味のある方はぜひ一読してみてください。

「昭和11年(原文は昭和二年)ベルリンオリンピック大会直前のI・O・Cで、次回大会が東京と決定した。協会は先年来調査して、板橋区志村の新河岸川に堰を造ってコースとする案を立て、内務省東京土木出張所に陳情したが一蹴され、これに代わって同出張所の金森誠之博士から、対岸の埼玉県戸田村に静水コースを掘鑿するの案を示された。この案が、余りにも理想的でかつ大規模なので協会は当初、夢想案と思われた」(同書P291)

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着工前の戸田競漕場 (現在の1000m付近)

荒川に平行して流れる小さな「新河岸川」が最初のオリンピックボートコース案だったとは驚きです。金森誠之という方のことは全く知りませんが、まさしく日本ボート界にとっては恩人のようです。

「内務省では多年埼玉県の同地方を苦しめていた水災防止のため、北足立郡戸田村に用排水路を掘鑿する設計が出来ており、工事に着手するばかりになっていたところへ、オリンピック漕艇場問題が起こったので、(中略)地主より漕艇場用地10万坪を提供させ、用排水路を拡張して、工費200万円で荒川と並行に長さ2,500メートル、幅80メートル、深さ3メートルのボート用一大プールを築造しようというもの」

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戸田競漕場完成予想図

荒川の水災防止用の用排水路計画を転用したものなのですね。そういう国家プロジェクトとうまく結びつけてくれたお蔭でいまの戸田ボートコースができたようです。

「この時、横浜市体育協会から鶴見川案、千葉県我孫子町から手賀沼案が提出されたが、組織委員会の視察の結果は、①鶴見川は改修工事が間に合わず、②手賀沼は浚渫困難と藻の発生多いことがわかり、結局戸田村を第一候補、手賀沼を第二候補と決定した。」

やはりいくつかの案が検討されたことが分かります。

「昭和12年5月、開鑿工事に着手以来、工事は主として浦和刑務支所の受刑者の勤労奉仕によって着々と進んだが(中略)ボートの学生も、もっこかつぎの勤労奉仕をした」

「もっこ」というのは、土石などを運ぶ道具で、この「もっこかつぎ」の写真は、わたしもどこかで見た記憶があります。

「ところがにわかに戦争という国家的理由によって東京大会は中止と決定した。」

昭和13年7月のことです。

「各競技場でまだ着手していない所はいいとしても、ボートの戸田コースのごとく工事の半ばに達しているものの処置については種々問題とされたが、戸田漕艇場は、東京大会という目的以外、付近一帯を永久に水害から救うという目的もあるというので工事継続の方針が決まり(中略)中止されていた戸田コース工事も10月から再び工事を継続」

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戸田競漕場平面図

戸田漕艇場の残土は蒸気機関車(軽便鉄道)で運ばれた

この間ボート関係者は大慌てで「文部省と厚生省に猛運動して」結局予算は多少削減され「長さを2,400メートル、幅を75メートル、深さを2,5メートルに縮小し、陸上施設は一切取りやめる」こととはなりましたが、3ヵ月間の工事中断を乗り越えて無事工事再開にこぎつけたようです。

「いよいよ工事完成。神宮大会直前の(昭和15年)10月27日のことである。水入式を挙行した。(中略)水門が開くと、満潮時の荒川の水は、全長2,400メートル、幅70メートル、深さ2メートル半の一大水路に滔々と流れ込んできた。(中略)全コースに水が入り切るまでにたっぷり2昼夜を要した。もって水路の大規模工事であったことの一端がうかがえる。かくて昭和15年10月31日、コース開き式が漕艇協会主催の下に行われた」

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昭和15年戸田漕艇場水入式

こうした紆余曲折を経て、戸田ボートコースは無事完工に至ったのです。

それにしてもです。もし着工があと1年遅れていたとしたらどうなっていたでしょう。あの戦時下のこと、「不要不急の施設」と断定され、多分造られない可能性の方が高かったと思います。戸田ボートコースのない日本ボート界をわたしは想像することができません。

また陸上施設は最初なにも無かったのですね。たしかにわたしが漕ぎ始めた昭和33~34年頃の戸田には、共同艇庫もありませんでしたし、各大学等の艇庫や合宿所もあまりありませんでした。東大の合宿所も古い木造2階建てのボロ家(大先輩が寄付してくれた家を移築したもの)で、艇庫はどうなっていたのかよく思い出せません。

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完成した戸田競漕場 (現・戸田橋親水公園前から現・東京大合宿所側を望む)

完成した戸田競漕場 (現・戸田公園管理事務所棟から現・三菱養和会艇庫側を望む)

1964(昭和39)年の東京オリンピックのために、コース幅を90メートルに拡げ、共同艇庫、本部建物が造られ、ようやく今のような姿になったのです。各大学等の合宿所・艇庫もこの時から建ち始めました。

以上、宮田勝善先輩の『ボート百年』によって戸田コース縁起をたどってみました。

以上

(写真・資料:江戸川大学 古城庸夫 所蔵)